原爆の火、平和の灯。

2010年9月23日
あわのわPEACE LIVEで灯すのは、「平和の灯」。
この火は、65年前に広島へ投下された原爆の残り火です。
福岡県星野村でずっと絶やさずつながれてきた
この火は、憎しみの火から祈りの灯へと
時とともに変わっていきました。
「平和の灯を囲み、私たちはひとつに鳴る」
みなさんどうぞ、楽器・声・ダンス・・・など
好きな方法でご参加ください。
(あわのわTALK「平和の灯をつなぐ」17:30〜/
あわのわPEACE LIVE「平和の灯を囲み、私たちはひとつに鳴る」18:00〜)

原爆の火」 岩崎京子 文

六十五年前、日本は戦争をしていました。
戦場は中国各地にひろがり、その上アメリカ、イギリスなど世界の国ぐにを相手に戦うことになりました。
戦争は激しくなり、日本のあちこちにアメリカの爆撃機がやってきました。
でも広島だけは、なぜか空襲がありませんでした。
軍隊の司令部や駐屯地があり、軍港も近いというのに…。
広島の人たちは、きのうと同じように、その日もふつうに暮らしていました。

山本さんが入隊したのは、「暁二九四〇隊 大乗(おおのり)駐屯地」でした。
そこから毎日汽車に乗って、広島の司令部に行って、伝達をもらってくるのが任務でした、
広島には本屋をしているおじさんがいます。
早く父親を亡くした山本さんにとって、親がわりのやさしいおじさんで、ちょっと寄って顔を見るのが楽しみでした。
だから広島に行けるのは、山本さんにはありがたいことでした。
「明日みかん酒が入るけんね。のみに来んね」
「ええ」
それは平和な広島の最後の日でした。

約束の日です。
あと四、五分で広島というあたりで、突然ぴかっとまぶしい光がさし、激しい爆風で列車が横だおしになり、満員の乗客は床にたたきつけられました。
それが昭和二十(1945)年八月六日午前八時十五分、広島に原爆が投下された瞬間でした。

山本さんがようやく汽車からはい出しておどろきました。
広島の中心辺にもくもく雲がわきあがっています。
「あっ、おじさんの店はあの雲の下じゃなかね。おじさん、おじさん、だいじょうぶか」
みるみるうちに相当広い範囲、黒い煙が出、ちろいろ赤い火も見えました。
爆風でへいはたおれ、電信柱や立木が道をふさいで、目の前の広島の町に行くのに、大まわりしなくてはなりませんでした。
やっと出たいつもの道は、地獄の光景でした。
「苦しいよう、痛いよう、兵隊さん、楽にしてくれよう」
足にしがみつかれて、山本さんはとほうにくれました。
「水、水、水をください」
山本さんは思わず、水筒をさしだしました。
ふるとわずかにぽちゃんぽちゃんと音のする水筒を。
おじさんは?おじさんもやけどして、水をほしがっていないだろうか……。
すすでまっ黒になり、目と歯だけ白い人。
皮膚が赤くただれ、べろんとたれた人。
顔ははれあがり、髪の毛はこげ、幽霊のようにふらりふらり歩いてくる人。
「殺してくれ、兵隊さん。早く楽にしてくれ」
山本さんは泣きながら、もがき苦しんでいる人の口と鼻に、手をあてました。
ああ、地獄だ。いや、地獄よりひどい。
なぜこんな恐ろしい爆弾をこさえたんだ。
これが人間のすることか。
そして死ぬ手伝いをした私も地獄の鬼ではないか。

そして八月十五日。
戦争は終わりました。
山本さんは故郷の福岡県星野村に帰る前に、おじさんを探すことにしました。
お店のあったあたりはまだ片づけてなくて、くずれた壁土、れんが、かわら、柱とか板、窓の枠などが散乱していました。
第一、本屋がどこだったのか、見当もつきません。
「おや?あれは?」
どろに半分うまった板は、店の正面にかかげてあった看板ではありませんか。
「ここだ、ここだ、店はここだ。おじさんは地下に倉庫を作っていたはずだ。もしやそこに非難して……」
やっと入り口を探し、地下におりていくと本はそのまま灰になっていました。
空気が動いたためか、ちいさなおき火がぱっと炎をあげました。
「これがおじさんを焼いた火だ」
??あつかよう、おお、助けに来てくれたんか。
おじさんの声が聞こえるようでした。
「無念だったろうなあ、おじさん」
山本さんはしばらくすわりこんだままでした。
立てなかったのです。
「おじさん、おじさん。おじさんを焼いたんは新型の爆弾げな。
兵隊達がうわさしとっとよ。にくか兵器ばこさえて。ゆるせん」
「こん火ば持って村に帰ろう。おじさんのうらみと怒りの形見ばい」
火を運ぶには、ちょうどよいものがあるのを思い出しました。
出廷する時、ばあちゃんがわたしてくれた懐炉です。
使わないまま、ずっと持っていました。
それが、今役に立つなんて。
ばあちゃんはこんことば、見とおしちゃったんじゃろうか。
山本さんは熱い懐炉をだいて、貨車に乗ったり、バスに乗ったり、歩いたりして、やっと故郷のわが家に帰りつきました。

山本さんはいろりに火をうつしました。
「こん火ば絶やさんでくれ」
いったのはそれだけ。
なぜ絶やしてはいけないのかは説明しませんでした。
これがたくさんの広島の人たちを焼き、だいじなおじさんまでうばった原爆の火だとは、いえなかったのです。
火を見つめていると、その中に恐ろしい地獄の光景や、息をとめて楽にしてやった人たちのことがうかんできます。
山本さんはじっと火をにらみつけていました。
きっとこわい顔をしていたのでしょう。
家の人たちは遠まきにしていました。
ばあちゃんだけは、その火を、台所で使ったり、仏壇のお灯明(とうみょう)にうつしたりしてくれていました。

村へ帰った山本さんは、畑仕事をしたり、水車をまわして、村の人たちからたのまれた米をついたり、麦の粉をひいたりしました。
ある日、あちこちに紫色のあざができました。
ひとつひとつしこりがあり、うみを持ちました。
「これも原爆のせいかもしれんたい」
子どもたちに影響は出んとじゃろうか。
娘が大きくなって、縁談にさしつかえんじゃろうか。
それでも、三年、四年、五年……山本さんは火を守りつづけていきました。

困ったこともありました。
村の消防団の団長の役が回ってきました。
村の人には、
「山火事が心配です。外に出るときやねる前に、いろりやかまどの火は始末してください」
といわなくてはなりません。
でも自分は……。
「ああ、やっぱり火はあきらめた方がよかかなあ」
山本さんは迷いました。
すると、子どもたちはいっせいに、
「こん火は父さんの生命(いのち)じゃなかの?消さんでよか。父さん」
というではありませんか。
山本さんの気持ちは伝わっているようです。
何もいわなかったのに……。
子どもたちの心には、どういう形で伝わっているのだろうか。

その子たちを見て、山本さんはまた思いました。
「この子たちにあの地獄だけは見せてはならない。あの火ん中にやることはできん」

そしてまた年月がたっていきました。
ふと、あのはげしい怒りがいくらかおだやかになってると、山本さん自身も思うことがありました。
時間がいやしてくれたのでしょうか。
こういうこともありました。
ある日、ふいに山本さんは自分が兵士だったことに気がつきました。
忠実で勇敢な兵士でした。
敵に出会ったら、まよわず銃をむけたでしょう。
その相手が自分のように家族のある兵士であっても……。
これは山本さんにとって、大きい衝撃でした。

うらんではいかん。
うらみをはらすと、またうらまれる。
うらみはうらみをうみ、戦はくり返される。
戦をなくすことしかない。
星野村の人たちも、山本さんの願い、祈りの火のことは知っていました。
「戦争には、星野村の若いもんの根こそぎかり出されていったばってん、かえって来んもんのおっとよ。
もうこん村から戦争には出しとうなか。
村の決心のしるしに、そん火ば、村にあずからしてくれんね。
平和の象徴たい」
「平和の?」
「そうたい、戦はもういらんちゅうこった」
これは村の灯にしようという村の提案でした。
山本さんは素直にうなずきました。
「よろしくお願いします」

星野村は星の美しい村です。
そして今、地上にも平和の火が、天の星にこたえるように輝いています。
そしてこの火は、今地球のあちこちにうつされて、平和のしるしとしてともされています。